273. 好奇心に火を灯す
テキストや問題集を開き、そこに書かれている問題を解くことだけが勉強ではありません。また、問題が解けずにいる生徒に対して、技術的に指導をすることだけが教科指導ではありません。
情報過多の現代において、こと子育てや教育に関して、評論家的に技術的な話やあるべき論に終始しがちなことに私たちは懸念を抱いています。このような話の主語は誰なのでしょうか。「私は…と思う」「…は一般的だ」と並ぶ表現の主語は、多くの場合「大人である私」なのではないでしょうか。
一例として、大人は「紙かデジタルか」といった論争を続けていますが、子どもはとっくに「両方のいいところを併用している」のが日常生活での実態です。紙からデジタルへ移行されたプロセス自体を知らない子どもたちにとって、「科学的にどちらが有効か」を示したところで「こっちの方が使いやすい」と考える子どもに対して、別のアプローチを説得することに大きな意味があるとは思えませんし、実際に多くのこどもたちがそう話しています。
もちろん、あるべき姿を議論するのは大人であり、こどもの環境を整えるのも大人の大きな役割ですが、どんなに権威ある大人が、または影響力ある大人が語っても、子どもが目を輝かせることにつながるとはいえないというのも事実なのです。
学習に限らずスポーツでも芸術でも、子どもの原動力は「好奇心」や「憧れ」などではないでしょうか。「好奇心」に火を灯す大人の働きかけのうえに、数多(あまた)ある理論なり支援方略なりがあり、子どもはそれらの補助輪の助けを借りながら、自立に向けて能力を高めることと考えます。
先日、教育情報メディアActive!に「読み、書き、“理科実験”─好奇心に火を灯す自然科学の学び―」と題して寄稿しましたので、お目通しいただき、少しでも共感していただけると幸いです。
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